遊郭の始まり

「遊廓」という言葉をご存じでしょうか。

 

この言葉は、日本の風俗の歴史として、非常に重要な役割を果たします。

 

遊廓は、難しい字ですがゆうかくと読みます。

 

公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画を言います。

 

今でいう風俗街という感じですね。

 

いわゆるエッチなことをするには、この区域でないと営業してはいけませんよ、と定めて制限する決まりです。

 

 

別称として、花街(はなまち、かがい)、廓(くるわ)、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、傾城町(けいせいまち)などと呼ばれていました。

 

一区画にまとめられたのは、その地の支配者が治安を守り、風紀を統制することが目的だったと言います。

 

今でも、日本の風俗店は営業ができる区域が定められ、制限されていますよね。

 

これは、当時から理由は変わっていないのです。

 

色のあるところは必ず良からぬ者が集結するのは、何時の時代でも共通するものであるらしく、何百年という昔から色に関しては日本人の考え方が一貫しているのは考え深いことです。

 

 

江戸時代、公許の遊廓以外にも、遊女の集まる場所として宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)がありましたが、公許のものは遊郭だけです。

 

諸説あるものの、1589年に、京都の二条柳町に遊廓が作られたのが、最初の遊郭なのではないかと言われています。

 

そして、江戸つまりは東京にに遊廓が誕生したのは慶長17年の1612年であるとされていました。

 

今の静岡市であり駿府の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼びました。

 

これが今の吉原の始まりですね。

 

遊廓は明暦の大火で焼失し、浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転しました。

 

通の間では、人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言います。

 

 

大坂の「新町遊廓」、京都の「島原遊廓」、江戸の「吉原遊廓」は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えました。

 

新町の夕霧太夫、島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫などは名妓と言われ、有名です。

 

この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在しました。

 

最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われています。

 

 

こうして、遊郭ができあがっていき、日本の風俗の基盤はできたのでした。

 

風俗は場所や環境に大きく依存します。

 

今も発展途上国などでは、児童による売春が盛んにおこなわれています。

 

これも環境に寄るものです。

 

吉原で働いている人たちが今も安全に過ごしているのでは、この時代の統治者のお蔭なのですね。

鎖国時代の遊郭

1639年の寛永16年ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生しました。

 

南蛮貿易で潤った当時の華やかさには遊郭が必要でした。

 

そして、当時の南蛮人というとキリスト教徒です。

 

キリスト教徒は今のイスラム教徒と同じなのですので、キリスト教徒以外は人間ではないという定義を持っています。

 

日本人を人身売買することも平気で行っていました。

 

日本人の日本刀に怯えながらも、自分勝手にできるところはそうした野蛮な欲望を満たし、好き放題にやっていました。

 

人間でない者に対する暴力と性欲はキリスト教にとって、正義であったのです。

 

そうした野蛮な性欲を満たすためにも、遊郭は必要でした。

 

キリスト教徒の性欲のはけ口が必要だったわけですね。

 

また、そうした時代背景もあり、外国への不信感を呼び、日本は鎖国の道を選んだ、ともされています。

 

 

そうして鎖国の道を選んだ日本。

 

ペリーが来るまで、日本は未来永劫に続くかと思われるほどの平和な統治を続けていました。

 

そして、江戸時代には遊廓は代表的な娯楽の場であるのと同時に、文化の発信地でもありました。

 

日本の絵画などはこの遊郭のお遊びのような絵が、ゴッホなどに認められ、日本画となったものです。

 

日本画のほとんどは、当時は色事の延長線上として、深く認識されていませんでした。

 

今では有名な葛西北斎も、当時は遊郭の端くれで絵を描く馬鹿者に過ぎませんでした。

 

日本は労働をしない者は社会的地位がないとされ、仏教化も芸術家も、そこまで地位はありませんした。

 

また、歌劇などは主に遊郭で行われており、日本の伝統は遊郭で育ったとも言えるのです。

 

また、上級の遊女は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家や公家を客として接待しました。

 

これは今でいう高級ソープのようなものですね。

 

このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされていたようです。

 

 

江戸中期以降は度々の取締りを受けていきます。

 

そんな時代背景はありながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになりました。

 

また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていきました。

 

今まで高級な地位の者が使うものだった遊郭も、大衆が使うものとなり、教養のない人はそこで教養を学び、文化を学んでいきました。

 

遊郭は個人と個人とのコミュニケーションの場です。

 

されど個人と個人。

 

しかし、個人と個人なのです。

 

脈々とその文化は受け継がれていきました。

 

徐々に庶民の娯楽となり、やがて近代の遊郭となっていきます。